2002年FIFAワールドカップ・スペシャルコラム

ピッチの外の3つの視点(前編)(2002.4.8)

 

1.はじめに

2002FIFAワールドカップの開幕が迫ってきた。世界中が熱狂する1ヶ月間の始まりだ。ワールドカップは、4年に一度のサッカーの見本市と言う人たちがいる。その時々のサッカーを代表する戦略や戦術のお披露目の場であるからだ。また、一同に顔をそろえたスーパースターたちが、自らのパフォーマンスをアピールする絶好の舞台であるとともに、次代をになうスーパールーキーが生まれる場でもあるからだ。しかし、世界最大のスポーツイベントであるワールドカップの見どころは、そういったピッチの中だけにはとどまらない。ここでは、ピッチの外側に注目して、2002年ワールドカップがどういう大会なのかということをおさらいし、大会をより深く楽しむため準備をしたい。



2.史上初の2ヶ国共同開催方式の大会

1)共同開催から事実上の分離開催へ

本来、ワールドカップは一つの国で開催されるというルールだったが、1996年5月31日、国際サッカー連盟(以下、FIFA)は、これをくつがえして、2002年大会を日本と韓国の共同開催とすることを発表した。そして、この決定から約5ヶ月後の1996年11月7日、FIFAの作業部会で、大会名称を「2002年FIFAワールドカップ・コリア・ジャパン」とすることなど、大会の概要が決められた。その年の12月30日、韓国組織委員会(以下、KOWOC)が創立。その約一年後の1997年12月19日に、日本の組織委員会(以下、JAWOC)が設立された。

共同開催の前例としては、2000年のサッカー・ヨーロッパ選手権(ユーロ2000)が、当時、ベルギーとオランダの共同開催ということで準備が始まっていた。しかし、ユーロ2000のベルギーとオランダの場合は、言葉こそ違え、陸続きのお隣同士であり、ともにEUのメンバーでもある。また、2000年の大会時には、現金の流通はまだだったが、EU共通の通貨単位「ユーロ」で、カード決済ができた。そして、大会を準備・運営する組織委員会「ユーロ2000ファウンデーション」が、両国の統一組織として、オランダのロッテルダムにおかれていた。なによりも、この統一組織の存在が、ユーロ2000のキャッチフレーズ「Football without Frontiers (サッカーに国境なし)」を、そして共同開催ということを体現していた。

2002年ワールドカップの場合は、共同開催国である日本と韓国に、それぞれ組織委員会が設立されたことで、事実上の分離開催となることが決定的となった。

2)日韓の対立とギャップ

その後、準備が進むにつれて、ワールドカップへの取り組みにおける日本と韓国の対立やギャップが数多く見られるようになった。思いつくままにあげてみた。

・2000年秋に勃発した「大会名称問題」。大会名称を日本語で表記する場合の「日本」と「韓国」の順番が問題となった。結局、どうなったのかあやふやなままのような気がするが・・・。

 ・JAWOCとKOWOCのホームページの違い。ぜひ、両者のホームページを見比べていただきたい。事務連絡的なJAWOCのホームページに対して、KOWOCのそれはホームページ閲覧者に対していろいろな情報を提供し、盛り上げようとする姿勢が感じられる。また、JAWOCは日本語と英語しか対応していない(共同開催の相方である韓国語にも対応していない)が、KOWOCは韓国語、日本語、英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語、さらに中国語にまで対応している。

・観戦チケットの販売状況。2002年3月現在で、日本では不足し、韓国ではまだ余っている。韓国国内の試合のチケットを日本で販売すれば、あっという間に売れてしまうだろう。両国が協力すれば、韓国国内のチケット販売不振と日本国内のチケット不足という問題は解決に向かうし、一方的かもしれないが、日韓の交流にもつながると思うのだが。大会まで2ヶ月となった3月下旬になって、韓国国内に残っているチケットの海外販売が、やっと現実的な話となりつつある。

・北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)への取り組み。共同開催が決定した直後から、韓国は北朝鮮での一部開催のアクションをおこした。極めて政治的ではあるが、実現すれば、東アジアの和平の促進という効果は高い。しかし、この動きは、共同開催の大会の一部をどうするかという問題であるにもかかわらず、韓国が単独で、FIFAや北朝鮮にアプローチするばかりで、日本側はあまり関与していないようだ。

・ファイナル・ドローに先立ち、韓国側は、本大会初出場となった中国のファーストラウンドの戦いの場を韓国に誘致した。1994年USA大会で、イタリアを、イタリア移民の子孫が多いアメリカ東海岸でファーストラウンドを戦うグループに入れたという前例はある。今回の中国の場合は、中国のサッカーファンが観戦しやすいという表向きの理由とともに、韓国国内の経済効果、チケット販売促進効果という狙いがあきらかだった。日本側はどう関わっていたのだろうか。

 ・1999年12月、日本の東京国際フォーラムでおこなわれた大陸別予選組み合わせ抽選会と2001年12月の韓国、釜山(プサン)での本大会グループ分け抽選会の演出の大きな違い。

とりわけ、2001年12月1日に韓国の釜山(プサン)でおこなわれたファイナル・ドローの演出は、韓国が2002年大会にかける意気込みをあらわしていた。約2時間のイベントのあちこちに韓国の民族芸能が散りばめられていた。ホスト役でもあった韓国サッカー協会(KFA)の鄭夢準(チョン・モンジュン)会長は民族衣装を着て登場し、異例とも言えるドロー(グループ組み合わせ抽選)への参加までやってしまった。まるで、2002年大会は韓国の単独開催かのように思えた演出だった。

これらの日韓の対立やギャップから、日本と韓国が2002年ワールドカップをどうとらえているかが見えてくる。韓国は、1988年ソウル・オリンピックがそうだったように、2002年大会を、韓国を世界に発信する場として、韓国を世界に認めさせる場として位置付けている。そのためには、主催者であるFIFAに対しても、積極的に物を申し、時には戦う姿勢を見せる。一方の日本は、どちらかというと大会を無事終了させることで頭が一杯のようだ。FIFAに従順な日本は、あまりにも韓国と対象的だ。

3)2002年分離開催大会の楽しみ方

  それでは、観客は、事実上の分離開催となった2002年大会のどんなところに注目すると、大会をより楽しむことができるのだろうか。

ワールドカップが、試合そのものだけでなく、開催国の生活や文化や歴史までも楽しむものだとしたら、日本と韓国で同時に開催されるということは、1度の大会で2回分のワールドカップを体験できることになる。事実上の分離開催となった今では、このことが観客にとっての最大のメリットではないだろうか。大会期間中に日本と韓国の両方の会場を訪れてみることをお勧めする。

また、準備段階での両国の対立、ギャップから、日韓の文化、考え方の違いというものが、あらためて浮き彫りになった。このことによって、特に日本人と韓国人は、かえってお互いを知ることができたのではないだろうか。共同開催という名のもとに、お互いが譲歩しあっていたら見えてこなかったものかもしれない。

いずれにしても、ワールドカップというひとつのフィルターをとおして日本と韓国を比較できるので、今までよりも、両国の相違点と共通点が明確になることだろう。お互いの一層の理解への足がかりになることはまちがいない。

 さて、ここで、「2002年大会が失敗したら、その後の日韓関係はどうなってしまうのか」と心配している方に言っておきたい。心配は、まったく無用だ。2002年大会が失敗に終わることはない。ワールドカップやオリンピックといった世界的なビッグイベントに対して、失敗というレッテルを貼れる人間はいないからだ。そして、多少のトラブルがあったとしても、2002年6月30日の夜、横浜国際総合競技場で、優勝チームのキャプテンが黄金のFIFAワールドカップに口づけをした瞬間に、そんなトラブルはすっかり忘れ去られ、大会は成功に終わるのだ。

 観客としては、試合を楽しみ、日韓のギャップを楽しみ、その結果として、日本と韓国の間に何が生まれるのかをも楽しみにしたい。2002年ワールドカップはそんな大会なのだ。なお、唯一の日韓共同製作物とも言える大会公式ポスターは、共同開催の象徴として貴重な記念品となるかもしれない、ということを付け加えておく。

 

(中編へ続く)

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